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2009年04月 アーカイブ

2009年04月08日

タンゴは今から約130年前

タンゴは今から約130年前に、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの港町ラ・ボカ地区から始まったとされる。ただ、その前から、アフリカ系アルゼンチン人のコミュニティーで、「タンゴ」 と称する音楽がはやっていた。スペインやイタリアからの貧しい移民のフラストレーションのはけ口として、ボカ地区の酒場で生まれたダンスといわれる。日頃の不満を歌にし、最初は単身赴任の男性達が酒場で荒々しく男性同士で踊ったとも、娼婦を相手に踊られるようになったともいわれる。しかし、実際には記録はほとんど残っていないため、正しいことはわかっていない。ただ、リズムに関してはキューバのハバネラ、ヨーロッパ伝来のワルツやポルカ、アフリカ起源のカンドンベ、アルゼンチンのパンパで生まれたミロンガなどが、初期のタンゴに影響を与えたとされる。

1880年 現在譜面の残る最初のタンゴ バルトーロ Bartolo が出版される。(これにも諸説がある)
1980年代、ギターとフルートのバイオリンのアンサンブルだったタンゴにバンドネオンを入れる楽団が出てくる。
1897年、ロセンド・メンディサーバルがエル・エントレリアーノを作曲する。
1903年、アンヘル・ビジョルドが、エル・チョクロを作曲する。
1910年、エル・カチャファス El Cachafaz が最初のタンゴ学校を開く。後にカチャファスは、アメリカやヨーロッパに渡りタンゴの普及に努めた。
同時期、アルゼンチン上流階層の芸術家によりヨーロッパに紹介、カトリック教会が禁止令を出さねばならぬほどパリで大流行。
この時期、ドイツからバンドネオンが大量に輸入される。バンドネオンの定着が、タンゴの特徴となる。
1917年、ロベルト・フィルポ楽団により、ヘラルド・マトス・ロドリゲス作曲のタンゴのラ・クンパルシータが初演される。
1917年頃、“タンゴの神様”と言われる歌手カルロス・ガルデルがブエノスアイレスに現れる。
この頃、タンゴ楽団の楽器について、すなわちピアノ・バンドネオン・バイオリン・コントラバスという組み合わせが固まる。
1920年代、踊りのためのタンゴバンド大人気(代表的指揮者:ファン・ダリエンソ)。
1925年 フランシスコ・カナロのパリ公演が大成功する。
1926年 ファン・デ・ディオス・フィリベルトが、カミニートを発表する。
この頃より、ヨーロッパの楽団でタンゴを演奏することが流行する。コンチネンタル・タンゴの勃興である。
1940年代、アルゼンチン経済繁栄し、一人当たりの国民総生産では、ドイツやイタリアよりも上であった時期であった。タンゴ黄金時代の絶頂期であった。
1945年、第二次世界大戦が終わる。その前後ドイツのバンドネオン工場の多くが廃業となる。演奏家の人気度第一位のアルフレッド・アーノルド社が、バンドネオン製造をやめる。
1946年、ファン・ペロン大統領就任し、労働者の利益を重視しつつも、反対派を抑圧する政治を行う。
1948年 アニバル・トロイロ楽団で、歌のタンゴの傑作スール発表。
1950年代、日本でもタンゴ流行、国内に20を超えるタンゴバンドが存在。
1954年 アストル・ピアソラ、パリに留学。以降次々と新しいスタイルのタンゴを発表する。
1960年代、かつては先進国並みであったアルゼンチンの経済的地位に翳りが出てくる。モダンタンゴが根付き始める。
1976年 ビデラ将軍一派が軍事独裁政権を樹立し、市民運動家らを殺害、一般に 「汚い戦争」 Guerra sucia といわれる。フォルクローレやタンゴなどの音楽家の亡命があいつぐ。
1982年 フォークランド紛争で、アルゼンチンがイギリスに敗れる。
1983年 アルゼンチンで軍事独裁政権が倒れ民主化なる。
1983年、パリでタンゴアルヘンティーノが初演され大人気となる。
1985年 タンゴ・アルヘンティーノのブロードウェイ公演成功。
ブロードウェイでフォーエバータンゴが成功。
2003年8月、第1回アルゼンチン・タンゴ・ダンス世界大会がブエノスアイレスで開催される。
2004年6月、第1回アルゼンチン・タンゴ・ダンスアジア大会が東京で開催される。

作曲家 [編集]
アンヘル・ビジョルド Ángel Villoldo (1961年??1919年)
ロセンド・メンディサーバル Rosendo Mendizábal (1868年?1913年)
エンリケ・サボリド Enrique Saborido (1877年?1941年)
ロベルト・フィルポ Roberto Firpo (1884年?1969年)
ファン・デ・ディオス・フィリベルト Juan de Dios Filiberto (1885年?1964年)
フランシスコ・カナロ Francisco Canaro (1888年?1964年)
カルロス・ガルデル  Carlos Gardel (1890年??1935年)
フランシスコ・ロムート Francisco Lomuto (1893年?1980年)
エドガルド・ドナート Edgardo Donato (1897年?1963年)
ヘラルド・マトス・ロドリゲス Gerardo Matos Rodríguez (1900年?1948年)
オスヴァルド・プグリエーセ Osvaldo Pugliese (1905年?1995年)
アニバル・トロイロ Aníbal Troilo (1914年?1975年)
オラシオ・サルガン Horacio Salgán (1916年?)
アストル・ピアソラ Astor Piazzolla (1921年?1991年) 

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2009年04月25日

野望の崩壊と引退

コンスタンティウスがヨークで亡くなると、コンスタンティヌス1世はすぐに皇帝の座を継ぐと宣言し、またマクシミアヌスとその息子マクセンティウスはイタリアで共同皇帝になると宣言したので、ガレリウスの策略は崩れた。

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307年にイタリア侵入に失敗した後、ガレリウスは友人のリキニウスを正帝の位に昇格させた。自身の野心も薄れたので、母ロムラを称えて建設した都市フェリックス・ロムリアーナ(現在のセルビア・モンテネグロのガムジグラーダ Gamzigrada の近く)に引退し、その後の数年の余命を「喜びを味わい、いくらか公益のある仕事を行う」ことに奉げた。

ガレリウスは311年5月5日に死去した。エウセビウスの記載によると死因はぞっとするような病気で、おそらく大腸癌のような何らかの病気と思われる。

ガレリウスはルーマニアの宗教的な民謡(『皇帝』など)に歌い継がれている。

キリスト教徒の迫害
ディオクレティアヌス帝が統治した期間、キリスト教徒はおおむね平穏に生活できた。303年2月24日の布告によってキリスト教徒の迫害が始まったが、キリスト教徒の伝えるところでは、これはガレリウスの政策である。この迫害では、反政府的な秘密集会の恐れがあるとして、キリスト教の集会所が破壊された。

303年の布告以来、ガレリウスはキリスト教徒の迫害に固執した。しかし、311年4月、ニコメディアにて最後の病気が発しているときに、彼は自分とリキニウスとコンスタンティヌスの名の下に迫害を解除する布告を発した。キリスト教の教父ラクタンティウスは、迫害者の悪い末路を著した教化年代記『迫害者たちの死』(De Mortibus Persecutorum 34-35章)に、この布告の文言を記している。この布告によって、公式なキリスト教徒迫害は終わった。

ラクタンティウスによると、ガレリウスは自らのダキア人としての自覚を肯定し、また「彼はローマという名前を敵視すると公言した。彼は、帝国の名はローマではなくダキア帝国と呼ばれるべきだ、と述べた」。また、ガレリウスは最高位に昇るやいなや反ローマの態度をさらけ出し、2世紀前にトラヤヌス帝がダキアを征服してダキア人を冷遇したように、ガレリウスも征服者が被征服者を扱うかのようにローマ市民を手荒く冷酷に扱った、という。

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